《魂の中小企業》裏社会に負けず、負債30億にも負けず

2011年12月20日(火)掲載

朝日新聞で弊社代表の藤原賢一が紹介されました。

■中島隆(中小企業専門記者)

福島の郡山市に、「ランドマーク」という会社がある。藤原賢一(55)が1997年につくった、居酒屋チェーン「村さ来」の東北地区本部だ。福島、宮城、岩手で、あわせて30店あまりを運営している。
筆者は、そこそこ大きな本社を想像していた。たずねてみると、小さなマンションの、ありふれた一室だった。「意外でしたか?でも、わたしに見えはないんだ。すべてを一度失った男ですから。本社を厚化粧したって、お客さまには何の関係もないしね。ここに取引先のトップも来てもらっている。アサヒビールグループの荻田会長や泉谷社長は、感心してくれた」
福島県中小企業家同友会の郡山地区副会長。そんな肩書ももつ藤原は、何があっても従業員を守る、という覚悟を決めてきた男である。窮地にたっても、経営者の責任から逃げなかった男である。
話は、いまから20年ほど前にさかのぼる。

福島のとあるレストランチェーンの役員室は、さながら暴力団の事務所だった。裏社会の話がとびかっていた。たとえば、こんな具合だ。
「例の建物は、5億円もあれば出来ますぜ」
「融資を10億円に水増ししてもらう手はずはできてるな?」
「はい。返済しないことも金融機関は承知しております」
そんなやり取りを聞いている関係者の末席に、30代なかばだった藤原がいた。裏社会に乗っ取られたこのレストランの役員だったからだ。幹部に呼ばれることもあった。
「おい、この書類に、おまえのハンコ押せや」
見ると、社員が不利になることが書いてある。
「押しません」
翌朝、自分の車が、ぼこぼこにされていた。言うこと聞かねえと痛い目にあうぜ、という警告なのだろうか。藤原は、いつも身の危険を感じていた。目に見えない恐怖でいっぱいだった。
もともとは、ある農協の職員でしかなかった。融資、貯金、共済、為替、税務、不動産。実務をこなしながら金融にかかわることを勉強し、ひと通りマスターしていた。表彰されたこともある。ところが、つまずいてしまった。知人が経営していたレストランチェーンに融資をしたら、そこが粉飾決算をしていたのだ。30ほどの店をもち、従業員も500人いる。帳簿をチェックし、数億円かしても大丈夫だ、と藤原は判断した。二重帳簿をつけていたことを見抜けなかった。融資が焦げついてしまった。
藤原は責任をとって、農協に辞表をだした。そのレストランの役員になるなら融資は引き上げない、という約束のもとだった。ところが、方針がかわった。ある結婚式場といっしょにして、年商50億円の会社をつくることになる。その結婚式場を、裏社会の企業がいとなんでいたのである。裏社会の企業傘下にはいったので、借り入れの返済はしない。そして、お客さんは来るので、日銭がはいる。その企業にとって、レストランチェーンは、いい金づるになってしまった。
藤原は、覚悟をきめていた。〈おれには従業員たちに給料をはらう責任がある。給料を減らしたり遅らせたりなど、ひどい仕打ちをしようもんなら、おれは黙ってはいない〉。だから、関係者の末席に、かならずいたのだ。
なかには、藤原を守ってくれた男たちがいた。いっしょに酒を飲み、励ましてくれた男もいた。「おまえは何ひとつ、間違っちゃいねえ」。風のうわさで、彼は東京で死んだ、と聞いた。

藤原は3歳のとき、実母を亡くした。母の妹が父親と結婚し、育ててくれた。藤原の四つ年下の妹は、小児麻痺で歩けず、施設に入っていた。毎週のように施設に通っては、妹や施設の子たちと遊んだ。重い病で、あとどのくらい生きられるか分からない子もいた。
建築業をいとなんでいた父は、ミカン箱ぐらいの箱をつくり、その下に車輪をつけた。歩けない娘を座らせ、両手にサンダルをはかせて、外出させた。鬼ごっこや缶蹴りもさせた。
「社会的弱者に必要なのは、同情じゃない。きみは仲間だよ、いっしょに生きていこうぜ、という連帯感なんだ。わたしの原点かもしれないね。まあ、わたしも今は、社会的弱者だけどね」
日大の文理学部にすすみ、福祉のボランティアなどをした。卒業して福島に帰り、農協に就職する。金融の知識を身につけ、優秀な職員だったことは、先にふれた通りだ。
いい思い出は、仕送りローンを企画したことだという。東京にでた大学生の子どもへの仕送りは、たいへんだ。うちの親にも、苦労をかけた。だから、親は金利だけをはらい、元本は、卒業した子どもがはらう。そんな心やさしい商品を企画したところ、ヒットした。
「さだまさしの曲に、案山子(かかし)というのがあるでしょ。あのメロディーを思い浮かべたんだよ」
♪元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか 寂しかないか お金はあるか
労働組合の委員長もした。農協にはいって13年目、35歳のとき、あの融資でつまずき、あのレストランチェーンの役員になったのである。そして、ついに藤原は、従業員を守るため、社長になった。会社が抱えていた金融機関からの債務は、リース代などもふくめて30億円にものぼった。社長になるということは、すべての債務の連帯保証人になることでもあった。
闇社会にからめとられ、30億円もの借金をかかえ、自暴自棄になったこともある。そんな藤原が、いよいよ再起へと向かう。

藤原は、従業員たちを守るには転職させることがいちばんだ、と考えていた。そこで、チェーンの店を、ほかの会社に売却していった。あまり儲(もう)かっていない、という理由をつければ、裏社会の連中も了解した。従業員の転職先は、藤原が世話した。ときには従業員ごと店を引き受けてもらったこともある。店そのものは、真っ正直にいとなんできたのだから、やましいことは何もなかった。
最後に、店がひとつ残った。藤原は、裏社会のトップに、独立を直談判した。
「わたしに、この店を経営させてください。毎月70万円の家賃ははらいます。さらに、みなさんが給料としてわたしに払っている毎月50万円も浮きますよ」
誤解のないように言い添えておく。藤原は、裏社会から給料をもらっていたわけではない。自分でレストランを経営して得た、正当な収入だった。あくまでも、説得のためである。さらに、藤原がこだわってきたことが、自らを助けた。裏社会のカネをまったく使わなかったのだ。独立を認めてもらった。
ところが、その筋の人たちが店に入りびたる。一般客が寄りつかない。また直談判である。
「わたしは、断腸の思いで、みなさんに貢献してきた。家賃をはらっているわたしを、なぜ苦しめるんですか。未来永劫(えいごう)、わたしがかかわる飲食店に関わらないよう、指導してください」
店の駐車場からベンツやBMWが消えた。裏社会との関係の解消である。30億円の債務についても、藤原には救いがあった。すべては銀行が相手だったのだ。死去した父親がいとなんでいたアパートなど、すべての財産を、藤原は銀行に託した。2億~3億円の価値はあっただろうか。
「わたしは覚悟を決めたんです。ゼロになればいいやってね」
藤原の事情を知っていた銀行団は、不良債権として処理してくれた。藤原の店は、おしゃれなレストランとして有名になっていた。あるとき、店を売ってくれ、といってきた人がいた。見返りは、居酒屋チェーン「村さ来」を福島で展開するフランチャイズ本部の権利だった。交換に、藤原は応じた。そして、いまの会社をつくったのである。JR東日本の新幹線がとまる郡山駅前にあったフィリピンパブを「村さ来」の店に改装し、商売をはじめた。
女性客には、アイスクリームを無料で出した。男性客が、おれも食いてえ、というと、「だめです、男性は100円です」。クラブなどのホステスが夕方、同伴客と来てくれたことがあった。夜7時をすぎたころ、ふたりが店をでるとき、藤原はホステスを呼び止めた。「これからあんたや仲間が同伴客とうちの店を使ってくれたら、利用チケットでキャッシュバックする。仕事がおわったら、みんなで来てくれ。飲んで遊んでくれ」
居酒屋商売は、夕方5時すぎから7時まえまでが、鬼門である。同伴カップルでおおいに繁盛した。藤原は、ホステスたちの名前を、みんな覚えた。彼女たちは藤原を「賢ちゃん店長」と呼んだ。
雨の日。藤原は、客の靴を、ていねいに磨いた。大きな宴会では、無料で鏡割りをした。何かの記念日できた客には、タイの塩竈焼きをサービスした。誕生日にきた客には、うまれた日の新聞をプレゼントした。
関係者は、せいぜい月商400万円だろう、と思っていたが、998万円まで売り上げた。「お客の期待をはるかに上回る感動、感激を提供したからさ」
東北3県のちいさな都市に、フランチャイズ方式で「村さ来」の店をつくっていった。地元でくらすオーナーが、地元で従業員をあつめる。全国共通メニューだけでなく、その地の食材をつかった地産地消メニューを、それぞれが工夫を凝らして提供している。
藤原は、オーナーや従業員たちに、心からのサービスを、と口酸っぱく説いている。お客に感動、感激をあたえようぜ、と。「わたしは、悲しいこと、つらいことを、いっぱい味わってきた。だから、何をしたらお客が喜ぶのかが分かる。支えてくれた方々に、心から感謝できる。そして、いまの自分は何て運がいいんだろう、と思えるんだ」
ビール、焼酎、日本酒。藤原は、酒を「魔法の水」と呼び、こよなく愛する。カラオケの十八番は、さだまさしの「関白失脚」。妻に関白宣言をした夫たちが、いさぎよく負けを認める。そんな男たちへの応援歌といえばいいだろうか。
♪世の中思いどおりに 生きられないけれど 下手くそでも一所懸命 俺は生きている……がんばれ がんばれ がんばれ みんな

2011年3月11日。東日本大震災で、被災3県の「村さ来」の店は、大きな被害をうけた。亡くなったオーナーもいる。それぞれの店は、地域の人たちのため、店に残った材料で弁当をつくったり、トイレットペーパーを配ったり。感謝の手紙をもらい、大泣きする店長もいた。店は順次、営業を再開していく。
福島の浪江町にある店だけ、再開できていない。福島第一原発から10キロ圏の警戒区域にはいっているためだ。だから藤原の心に、「なみえ」の3文字が引っかかっていた。
この7月、藤原は、郡山市内のホテルであった、ある会合に参加した。そこでの出会いが、全国の「村さ来」で人気沸騰中のメニューに結びつく。写真で女性従業員がもっている焼きそばだ。キーワードはもちろん、「なみえ」である。(つづく、敬称略)